壱号ブログ
雨月のブログです。BLサイト「イチゴウニゴウ。」運営中。
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トーク・トゥ・ハー(ネタバレ注意)
「君の彼女への愛は単なる一人芝居だ……」
【ストーリー】:事故で昏睡状態になったダンサー、アリシア。彼女を慕うベニグノは、4年間、看護士として親身にアリシアを世話し、語りかけてきた。その頃、女闘牛士のリディアが、競技中に大怪我を負い昏睡に陥った。悲嘆にくれる恋人のマルコを、ベニグノは「彼女に話しかけて」と諭す。愛する女性が同じ境遇にいる2人は、次第に心を通わせていった。そんなある日、アリシアが妊娠していることが発覚する…。
以前見ました「バッド・エディケーション」と同じ監督さんということで、どんな感じだろうと思ったら……「バッド・エディケーション」程鮮明ではないけれど、やはり色の使い方が綺麗ですね。日本人の感覚では到底出せないセンスだなぁと思いました。
で、話の方はどちらかということ私はこちらの方が話的には好きです。
ベニグノの後半での行為は決して肯定出来るものではありませんが、「バッド・エディケーション」に比べてこちらの方が純粋な「愛」の話、または「孤独」の話だと思えるからです。
前から憧れていた女性が植物人間になっても悲しむどころか、毎日嬉々として彼女の世話を焼きながら彼女に語りかけ続けるベニグノ。
その看病は実に献身的で、彼女を本当に大事に思ってるという気持ちに溢れています。
けれど、そこには彼女自身の魂は必要ないんですよね。
確かに彼女が治ることを望んではいるのですが、私は心底それを望んでいるとは思えませんでした。
彼は出来ることなら永久にこの状態が続けばいいと心の中で思っていたんじゃないでしょうか。
というのも…後半、ベニグノはアリシアをレイプしてしまう訳ですが、私にはあまり、ベニグノのアリシアへの感情が愛情とは思えないんですよね。
レイプしようと思った理由もあの映画を観る限り、彼女の体に欲情して……というよりかは、あの映画の男性のように彼女の中に潜り込みたい……というか、母体回帰願望?みたいな感じがしましたし、
何と言えばいいか、ベニグノはアリシアを“愛する対象”というよりも“愛する象徴”…つまり偶像とでしか捉えていなかったような感じがしたんです。
だから、眠ってる彼女の意志なんて彼にとってはどうでもいい。なにせ、彼がもう自分の中で勝手に作ってしまっているから…。
なので、ベニグノのアリシアへの尋常ではない献身は愛情は愛情でも自己愛なんだろうと思えました。
だから、そんなアリシアよりもむしろマルコの方がよっぽど“愛する対象”だったように思えました。
(ここで同性愛とかそういう概念を入れると野暮ったくなるので外すとして)ベニグノはマルコを偶像としては見ていません。
一人の同じ人間として彼を見詰め、彼が傷つくようなことはしません。
「君のこと、抱き締めたい。一応、看守の人に聞いてみたら、「恋人か?」って聞かれた。違うって答えたよ。じゃないと君が困るから…」
こんな優しさを見せるほど、彼を気遣います。
そして、
「そうだって言ってくれて良かったんだ。君が思ってとおり、言えばいい」
と二人を隔てたガラスに掌をかざしてみせるマルコも“ベニグノ”を大事に思ってくれていました。
でも結局、ベニグノはアリシアを…自分の世界に閉じこもることを選んでしまいます。
ここでふと、この映画の冒頭で見た無音劇の女性と男性を思い出しました。
眼を瞑り、完全に自分の殻に閉じこもり、独り踊り狂う女性が転ばないようにと障害物を必死でどかせていく男性。
あれは、この二人のことだったんでしょうかねぇ。
そう思うと、二人ともどうしようもなく孤独です。
なので、ラスト。マルコとアリシアの間に何か予感めいたモノが残ったのは結構救いだったと思います。
それにしても、ラストで昏睡から目覚めたアリシアが実に生き生きとして美しいのが凄く印象的でした(リディアにも同じことを感じましたが)
で、話の方はどちらかということ私はこちらの方が話的には好きです。
ベニグノの後半での行為は決して肯定出来るものではありませんが、「バッド・エディケーション」に比べてこちらの方が純粋な「愛」の話、または「孤独」の話だと思えるからです。
前から憧れていた女性が植物人間になっても悲しむどころか、毎日嬉々として彼女の世話を焼きながら彼女に語りかけ続けるベニグノ。
その看病は実に献身的で、彼女を本当に大事に思ってるという気持ちに溢れています。
けれど、そこには彼女自身の魂は必要ないんですよね。
確かに彼女が治ることを望んではいるのですが、私は心底それを望んでいるとは思えませんでした。
彼は出来ることなら永久にこの状態が続けばいいと心の中で思っていたんじゃないでしょうか。
というのも…後半、ベニグノはアリシアをレイプしてしまう訳ですが、私にはあまり、ベニグノのアリシアへの感情が愛情とは思えないんですよね。
レイプしようと思った理由もあの映画を観る限り、彼女の体に欲情して……というよりかは、あの映画の男性のように彼女の中に潜り込みたい……というか、母体回帰願望?みたいな感じがしましたし、
何と言えばいいか、ベニグノはアリシアを“愛する対象”というよりも“愛する象徴”…つまり偶像とでしか捉えていなかったような感じがしたんです。
だから、眠ってる彼女の意志なんて彼にとってはどうでもいい。なにせ、彼がもう自分の中で勝手に作ってしまっているから…。
なので、ベニグノのアリシアへの尋常ではない献身は愛情は愛情でも自己愛なんだろうと思えました。
だから、そんなアリシアよりもむしろマルコの方がよっぽど“愛する対象”だったように思えました。
(ここで同性愛とかそういう概念を入れると野暮ったくなるので外すとして)ベニグノはマルコを偶像としては見ていません。
一人の同じ人間として彼を見詰め、彼が傷つくようなことはしません。
「君のこと、抱き締めたい。一応、看守の人に聞いてみたら、「恋人か?」って聞かれた。違うって答えたよ。じゃないと君が困るから…」
こんな優しさを見せるほど、彼を気遣います。
そして、
「そうだって言ってくれて良かったんだ。君が思ってとおり、言えばいい」
と二人を隔てたガラスに掌をかざしてみせるマルコも“ベニグノ”を大事に思ってくれていました。
でも結局、ベニグノはアリシアを…自分の世界に閉じこもることを選んでしまいます。
ここでふと、この映画の冒頭で見た無音劇の女性と男性を思い出しました。
眼を瞑り、完全に自分の殻に閉じこもり、独り踊り狂う女性が転ばないようにと障害物を必死でどかせていく男性。
あれは、この二人のことだったんでしょうかねぇ。
そう思うと、二人ともどうしようもなく孤独です。
なので、ラスト。マルコとアリシアの間に何か予感めいたモノが残ったのは結構救いだったと思います。
それにしても、ラストで昏睡から目覚めたアリシアが実に生き生きとして美しいのが凄く印象的でした(リディアにも同じことを感じましたが)
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